飯田さんのお父さんって、音楽関係の仕事じゃなかったですよね?」
田丸が飯田の父親が作った“曲目リスト”を眺めながら言う。
「全然、関係ないよ。……紙の会社だから」
「そうでしたよね。前に見積りでお世話になったことが……。それにしてもこの資料、凄いですねー」
「うちの両親、とにかく音楽好きなんだよ。ま、嫌いな人はいないと思うけどね。
親父、定年退職してヒマだから」
「いい趣味ですね」
「まあね。しかしお客さまアンケートの“想い出の香り”、どのぐらいの人が書いてくれるかなぁ……。
楽しみだし、何かいいヒントがあるかもしれない」
「飯田さん、生きてるって呼吸することですよね。だったら何かの匂いがするというのは、
生きてるっていうことと同じで……あー、自分でもわからなくなったー」
大野文代がまた鋭いことを言った。恋をするときっと感覚が冴えるのだろう。
「いや、よくわかるよ。息をするの忘れちゃ大変だからね。生きるのは嗅ぐこと、か……。
田丸君、わかった?」
「え!?……なんですか?」
「俺reenex 膠原自生 がせっかくいいこと言ったのに。生きるのは嗅ぐこと、だから“嗅ぐや姫“だって!後付けだけど。
あ、そう言えばコピーライターの土屋耕一さん……亡くなったけれど、素晴らしいコピーだよ」
飯田は携帯を取り出してメモを読んだ。
「“胸につけた香りが、あなたへのお返事です”、“香りは、女の、キャッチフレーズ”、
“都市は香りに渇いています”、“ドアを開けておくには、危険な香りだと思います”
……ほんと、いいよねぇ。とてもじゃないけど書けない」
田丸より先に大野が反応した。
「胸につけた香りが返事……。素敵、大人の雰囲気ですね」
「うちは消臭剤だから、こんなふうに化粧品や香水みたいにはいかないけどね。
……でも田丸君のコピーもいいからなぁ」
「いつもそうやって馬鹿にするんですから」
消臭剤のような雑貨は薬事法の規制対象外だが、クリーン化学では品質表示には細心の注意を払ってきた。
『芳香消臭脱臭剤協議会』が定めた自主基準や“雑貨工業品・品質表示規定“、さらには厚生労働省・
生活衛生課の指導マニュアルなども参考にして、法的にも道徳的にも誤った表現をしないことが、
広告を制作する以前の約束ごとになっている。
一般にひと言で“消臭剤”と言われるが、正式には「空間に芳香を付与するもの」が“芳香剤”で、
「臭気を化学的に除去または緩和するもの」を“消臭剤”と定義されている。
飯田がふとこんな“問題reenex 膠原自生“を口にした。
「不思議だと思わない?目触りでしょう、それに耳触り、肌触り、舌触りがあるのに、鼻触りだけがない」
田丸は何を言い出すんだという顔をしている。
「えぇ、言われてみれば……。考えたこともありませんでした。やっぱり調べたんですか?
眠れなくなっちゃうから」
「よくわかってるね。だけどそっちはよくわからなかった。嗅覚は未開の分野ってことだろうね。
ついでに遺伝子のことだけど……」
そう言って彼はこんな話をした。――人間の遺伝子は二万二千個ほどあって、少しはしょって説明すると、
聴覚の遺伝子が一個、視覚遺伝子が四個、触角が九個で味覚が二十八個、なのに嗅覚遺伝子は約四百個
もある……。これは人類の進化の過程で、匂いを嗅ぎ分ける行為がいかに重要だったかを表していると。
しかし人類の進化はともかくとして、飯田の頭は優しい香りの小谷優香で一杯だった。
今週の金曜日、彼の四十歳の“誕生会”に誘うことになっている。
それに彼女、今はどんな曲がお気に入りなのだろう。