
水曜日。晴れ。気温十九度。起床後、ルーティンどおりに腕立てを五十回。腹筋を五十回。
百二十キロのベンチプレスを二十回。それを一セットとして、計三セット。そしてたっぷりの食事を取り、外へ。目指すは池袋。高層ビルの裏手にある、安っぽい雑居ビルの五階。ドアには『黄《ファン》経済研究所』と書かれ
ている。ノックを二回。五秒おいて五回。さらに五秒待ち、中へ。
この手順を踏まないと、ドアは決して開かない。
事務所の中には机がひとつ。それだけだ。ファイルを収める棚も、応接セットもなし。そして、たったひとつの机の向こうに座っているのがファンだ。
「よう、リルビィ」
ガラガラの声でファンが言う。
ファンは身長百五十センチ、体重四十キロ、ずるがしこいキツネみたいな顔をしている。痩せていて狡猾《こうかつ》そうなところは、ほんと、キツネそっくり。日本生まれの韓国人で、年は四十代半ば——あたしがファンにつ
いて知ってることはそれくらいだった。一度背景を探ってみようとしたことがあるけれど、途中でやめた。まずいことになりそうな気がしたからだ。たぶん、正しい判断だったのだろう。どのみち、知ったところでどうなるもので
もないし。
あたしは机の前に立ち、面倒《めんどう》くさそうに言った。
「補給に来たよ、ファン」
「わかってる」
肯《うなず》くと、ファンはポケットから小さなビニール袋を取りだし、テーブルの上に放り投げた。ビニール袋の中には白い粉末が入っている。フロート効果の源だ。あたしはその袋を自分のポケットに滑《すべ》りこませた
。
「実はな、リルビィ、よくない噂《うわさ》がある」
「噂?」
ファンが言う『噂』は、文字どおりの意味ではない。あまり話したくないが、話さざるをえない事実があるという意味だ。最初、そのギャップがわからなくて戸惑ったものだ。
「どういう噂なの?」
「そいつをベースにしたブレンド物が出まわってるらしい」
「なんだって」
「|天使の糞《エンジェル・シット》とか呼ばれてる。新手のヤクだと思われてるみたいだ。フロート効果がおもしろいんだろうな」
「けど、どうしてこれが……」
「よせよ、リルビィ。どんなところからだって物は漏《も》れる。CIAだろうがKGBだろうがモサドだろうが流出と漏洩《ろうえい》を防げるわけがない」
その通りだった。
あたしは肯き、言った。
「わかった。気をつけておくよ」
「頼《たの》む。悪いけど」
「で、あんたのほうの用ってのは?」
「なに、仕事ってヤツさ」
ファンは一枚の写真をテーブルの上に投げだした。
女の子。
若い。
高校生。
薄紫の制服。
パッと見て取れるのはそれくらい。
「名前は中村明美。なかなか可愛い子だろ」
「この子がどうしたの」
「殺ってくれ」
「はあ?」
「二度も言わすなよ。殺すんだよ」
「なんでまた」
「どうしたんだ、リルビィ。理由を聞くなんて、おまえらしくないな」
その通りだった。
あたしはいつも、理由を聞かない。
必要ないからだ。
それでも思わず聞いてしまったのは、その子があまりにも普通だったからだ。どこにでもいる、ただの高校生。めずらしくもなんともない。こんな普通の子に、殺されなければならない理由があるなんて。あたしは大きく息を吐
いた。
「確かにあたしらしくないね」
「まあ、でも、いいや。説明してやるよ。そのほうが絵がはっきりするし。おまえさんもやりやすくなるはずだし」
「絵? どういうことよ、ファン」
「なに、至極《しごく》簡単。この子はフローターだ」
あっさりと告げるファン。
それを聞いて、あたしは舌打ちした。
「糞《シット》! フローターだって? この子が?」
「間違いないね。この三ヵ月、専属のチームがずっとその子に張りついてる。例の連中さ。おまえさんもご存知のように、フローターはいろいろやっかいだからな。仮性なら、まあ、放っておけばそのうち元に戻っちまうが、この
子は真性らしい。となれば、連中が見逃すはずはない。それで、おまえさんに話が来たってわけ。フローターにはフローター。道理だな、まったく。連中は確かにやり方を心得てるよ」
「真性……先天的なものなの?」
「いや、そうじゃないらしい。なんでも、トラブルに巻きこまれたショックだとよ。ま、もともと因子を持ってたんだろうな。トラブルはただのきっかけだろう」
写真を手に取る。最初の印象は変わらない。ただの、日本の女子高生。まだ子供だ。あどけないが、どことなく繊細で、どう表現すればいいか……健気《けなげ》……いや、違う……痛々しい……そう、痛々しい顔つきをしてい
る。その顔つきが生まれついてのものなのか、あるいはフロート現象によって身についたものなのか、あたしにはよくわからなかった。
「あたしに依頼《いらい》が来た。ってことは、第二段階に移行しつつあるってことね?」
「連中はそう考えてる」
「時間はない、と」
コメント